三井新 聞き手・後藤遼太
真珠湾攻撃で命を落とした若者は、「軍神」とたたえられた。自己犠牲の美談にあおられ、戦意を高めた国民のまなざしは戦後、一変する。太平洋戦争の開戦から8日で82年。研究者は、時代の空気を支えたものに目をこらすよう訴える。
1942年春ごろ、前橋市の農家の前に黒塗りの車が止まった。降りてきた軍服姿の嶋田繁太郎海相らが、人々の視線を浴びながら、わらぶきの家に入った。当時6歳の岩佐直正さん(87)はその様子を見ていた。
嶋田海相らが訪ねたのは、41年12月8日の真珠湾攻撃で戦死した岩佐直治さん(享年26)の実家。直治さんは直正さんの叔父にあたる。攻撃後に母艦に戻るのが難しい、2人乗りの小型潜水艦「特殊潜航艇」に乗っての出撃だった。
計5隻の乗組員のうち軍部は捕虜になった1人の存在を隠し、戦死した9人を神格化。直治さんは死後、大尉から中佐に2階級特進し、新聞やラジオは「九軍神」とまつり上げた。
直治さんの歌や映画が作られ、地元の寺に墓も建てられた。見知らぬ人が直治さんの実家を訪ねてくることもあった。
あの日、海相は弔問のために訪れ、直治さんの両親や直正さんの父らは正座して迎えたと聞いた。別の日には東条英機首相も来たという。直正さんは「海軍大臣や首相が親戚の家だけに来るのはどうしてなのかと思っていた」と振り返る。
直治さんの死は、戦意高揚に利用された。だがその陰で、直治さんの母は泣いていた、と直正さんは聞いたことがある。
墓参りの人は減り、いまだに同窓会で…
直正さんに残る唯一の叔父の…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル